島津家は、本宗家と呼ばれる正統の守護家に力がなく、薩州家・相州家といった分家が相争う混乱の中にありました。
14代勝久の頃には、勝久の正室の兄である薩州家の島津実久が実権をにぎり、自ら守護に取って代わろうとします。身の危険を感じた勝久は、当時薩州家と並んで力をもっていた相州家の島津忠良に庇護を求めます。忠良は嫡子虎寿丸(のちの貴久)への家督相続を条件にこれを承諾し、実久と争うことになります。貴久が元服すると、勝久は一度は約束通り守護職を譲り隠居しますが、まだ25歳の勝久は家督をあきらめきれず、かつての仇敵実久と手を組み実権回復を狙います。しかし優柔不断な勝久には実久も愛想をつかし、利用価値がなくなると、勝久を追放し島津宗主の座は忠良と実久の間で争われることになります。
実久は猛将で、忠良と一進一退の攻防を繰り広げ、別府城(加世田城)を攻めた忠良が大敗し、命からがら敗走したこともあったそうです。
しかし1537年末、ついに忠良は実久を本拠地別府城(加世田城)に追いつめ、大晦日に別府城(加世田城)に夜襲を仕掛け、攻城戦は大晦日から元旦にかけて行われ、別府城(加世田城)が落城したのは天文8年1月1日の未明だったといわれています。後に島津家きっての名君と仰がれる日新斎は、この戦いのことを「我が生涯の中で最も激しい戦い」と言っています。
別府城(加世田城)の戦いに敗れた実久はその後も薩摩各地で抵抗を見せますが、忠良勢には対抗できず、薩摩北部の出水(いずみ)に落ち延び、同地で没したそうです。
島津家は忠良・貴久のもと一つにまとまり、島津家悲願の三州統一、更には九州統一を目指していくことになります。