【1492(明応元)年〜1568(永禄11)年】
守護職の島津家の分家である島津伊作家の10代目当主。
1492年に明応元年九月二十三日伊作本城の亀丸城で生まれ、幼名菊三郎といい、父は伊作島津九代島津善久、母は常盤。三歳で父を失い、母常盤の後見で伊作城主となる。
1512(永正9)年、常盤の再婚相手である運久の所領を譲り受け、島津分家の中でも抜きんでた勢力を手中にする。のちに、薩州家の実久(さねひさ)の勢力を押さえ切れなくなった本宗家勝久が、嫡男虎寿丸(のちの貴久)への本宗家家督相続を条件に忠良を頼ってくる。
1527(大永7)年、貴久の本宗家家督相続と同時に忠良は仏門に入り、「愚谷軒日新斎(ぐこくけんじっしんさい)」と称するようになる。
1539(天文8)年には加世田の戦いに勝利して、実久を出水(いずみ)に追いやり、薩摩の全権を掌握する。その後も貴久の三州統一を助けながら、1545(天文14)年には、いろは歌を作成、薩摩の士風の強化にも勤める。島津家中興の名君である。